一本の、好きな色の糸があるとする。
好きな色だから編んでると幸せな気持ちになる。
幸せな気持ちに、なるんだけど、ずうっとそれを編んでいるとだんだんつまらなくなってくる。清浄な気持ちになれると思って選んだセルリアンブルーの糸でも、延々と編んでいると、鬱屈した気持ちになってくる。
サメの肌にしたかったのに、そしてその色はとても合っていると思っていたのに、少し暗い、海の深みの暗さではない、気持ちの澱が色に交じってしまったように見えてくる。
そうならないように、色を混ぜる。
糸は絵の具ではないから自由に色を混ぜることはできない。
けれど、他の糸と一緒に取って同時に編むことで、一色の糸ではできない色を出していくことができる。
二本の糸は捩じり絡まりしながら編まれていくので、編み目に出てくる模様が同じになることもない。自分で選んだ糸同士のはずなのに、自分では想像しなかった色味を出してきてくれることがある。
サメ肌は、滑らかな肌の時もあればごつごつするときもあり、それはサメなりの肌荒れだったり昔の傷だったり少し隠したいところだったり自慢のところだったり、私の知らないところで積み重ねられた物語が、そこに現れてくるような気がする。
私はすぐに人を巻き込む。
もう巻き込まないようにしようと思っていたのだけれど、やはり一人ではどうにもできない気がして、誰かと一緒に進んでいる錯覚が欲しいような気がして、見張ってほしくて励ましてほしくて嘲ってほしくて、やっぱり人に声をかけてしまう。
誰かと一緒に何かを作っていると、基本的にはいらいらする。
自分の言ってることを理解してもらえなくて、自分の好きなように動いてもらえなくて、自分が欲しかったものを持ってきてもらえなくて。
なんてことない、あたりまえのこと。
みんながみんな自分とは違う人間なのだからあたりまえのことなのに、光る画面の前で大きく育ってしまった自我はときどきそんなあたりまえのことを忘れる。
でもありがたいことに他者は、どんなに私がいらいらしても変えることができない。
たとえば自分の思い通りに誰かを操れたとして、その人たちが自分の思うとおりに動いてくれたとして、その成果物は私を驚かしはしない。
セルリアンブルーの糸は、どこまで行ってもブルーの枠からはみ出ることはない。
だから私はすぐに人を巻き込む。
赤や黄色や白の糸を混ぜ、段染めだったりグラデーションだったりして色を替えていく糸を合わせ、思いがけないサメ肌に、自分のサメがなっていく様を眺める。
光り輝く白いモヘアが見えたかと思えば、漆黒の柔らかいウールの後にポップなアクリルが出てくる。まっすぐな糸の間をスパンコールが流れていって、毛羽立ったファーのあとをぽこぽこしたループが追いかける。
濁った海の底でひっそりとたたずむだけだった私のサメは、突如目を覚まし、頭上を見上げ、深呼吸をして鰭を羽ばたかせ泳ぎ始める。
自分一人では泳がすことのできなかったサメ。でも遠くに、セルリアンブルーの見えるサメ。
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